しばらく何も書かないでいたブログを、また書き始める時には

 しばらく何も書かないでいたブログに、また記事を書き始める時は、どう書き出したらよいのだろう?。そうなってしまった事情をともかく記すべきだろうか?。・・・いやそんなこと、知らぬふりしてしまうのが良かろう。

 よしそれで、・・・けれども昔の記事を消してしまったことについては、一言あるべきだろうか。

 もう二年前の九月頃だったが、文化的な事業を目的として設立された財団の役員を引き受けることになった。となると、あまりふざけた書き方の文章を公開しておくのも、自分一人にとってはなんでもないが、財団にとって何かあるのはよくないと慮ったのである。

 それなりのペースで記事を書き連ねていけば、一度書いて述べたようなことは、いずれまた話題次第で同じことを記すだろうと思って、ヒョイっと消してしまった。

 ・・・しかしそのあと、事情あって予定通りにならなくなった。が、それはそれでと言うことで。


 さて、もっぱらネットの閲覧者としてしばらく過ごしてみると、ブログというものが大分に様変わりしたものになったように感じられた、ということから。

 このはてなダイアリーなどでも、はてなブログに大方の人が移行していったようである。私もその動きに素直に従うつもりである。ではあるが、はてなブログのあれこれを見ていると、今風のブログ的なあり方とでも言おうか、それの出来上がり具合に、こういうところにまで気を使ってやんなきゃいけないのかと、どうも気後れに似た気持ちになってしまう。

 もう少し広く見回すと、数年前から本屋に並び始めたブログの書き方本通りに作り込んだものも、ごく普通に見られようになってきている。最初に記事の内容を短く記して、内容目次をページ内リンク込みで書き込んで、もしブログでの収益を狙うならばアマゾンや楽天の商品ページにつながるのを並べて・・・、という具合になっている。そして、そんなことは私のやりたいと思うことでは全然ない。


 扱われる話題も、書き手の意見の述べ方にも、幾らかの変化がある。しっかりと捉えきれないが、強いて一概に言ってしまえば、当たり障りがないようにする配慮が、これまで以上にあらかじめ働いて書かれているようになったと思う。読みやすいネット文章の指南書がいくつもあるが、その読み易い文章で、読まれ易い話題の記事を書くようになったのも、当たり障りのなさに繋がっているのだろうか。

 社会的話題にとんがった批評で突っ込んだものは、今でもあるにはあって、それなりの読者を得もしようが、私には面白いとは全く感じられない。私は昔からそういったものは、論評の技術に走っているか、それを駆使して見せたたものに過ぎないとみなしてしまうところがある。

 サヨク、それともリベラルと言うべきか、そうしたスタンスからのは、同じ調子で相変わらずなのだろうか。そうしたのは全く見に行かなくなったので、どうなったのか分からない。


 政治や社会のことは、テレビや新聞といったマスコミがおかしなものになってしまったので、何にせよクリアーな実像が持てなくなった。あちらこちらから、勘に頼ってこれはしっかりしてるかと思えるのを寄せ集めて、それで部分や断片をやっと掴んだような気持ちを持つばかりである。が、時にその勘も外れたりするから、何にせよ、意見、評価、そして判断をきちんと下すことができない。


 そしてこれは、新しい記事を書けないできた理由の一つである。新聞、テレビの報道では、同じことを同じ視点で同じ論調で続けられるばかりのところへ、ネットからはマスメディアとは別の情報が知らされたり、全く反対のことが告げられたりして、数日の間に事柄の最初の印象が揺らぎ、一週間もすると想像されるところが変化し、一ヶ月もすると根本的に理解が改まる、そんなことがこの一年間でも数多くあった。

 さらにテレビ、新聞、そしてネットでもまた、はっきり誘導的と思われる記事が、遠慮なく発せられている。企業や商品について扱う記事は、ほとんど全てが広告か、グッズカタログ的雑誌の記事のようなものである。事件については、ことを起こした当事者の社会的影響力が大きく強ければ、それだけ問題性が低いように扱われる。だがまた、ライバル的地位からなのか、利害対立の故なのか、特定商品のネガティブな評価が執拗に与えられ、事件の問題性が事柄以上に激しく論じられもする。


 こんな状況で、なるべく大きなところから、可能な限り根本へと目を向けて、物事を理解したいと思う私には、今の出来事についてまとまったものを書くことなどできない。土台となるところから全体像を描きながら本質的なものを捉える、これを中立的なとか、客観的な理解と言い換えても良いと思うが、今の我々は人間意識がそうした理解や認識を持つにあたって有する限界を反省して、なおそれでもそのような理解や知識を目指す態度が、やはり人間意識の本性であることを忘れてしまっている。いわゆる主観的なといった意見や意識のあり方は、もちろん一方で認められるものであるが、しかし他方で普遍的なものの存在もまた認められるし、認めねばならないものである。

 我々は主観性の理解を履き違えて、いやもともときちんと理解しないで、いわゆる主観的なものを野放図にしてしまっている。無反省な自我の欲するところを、そのままに是認して良しとしてしまっている。社会的地位を得た者は、その地位の公的性格をして、自己の利益を図ることに躊躇わない。こうすることで社会における公共的なものは破壊されるであろう。自己の見解や理解へと人を誘導しようとする者は、普遍的理念を自己の主張に有利となるように使うのに、しかしその同じものを反論者が根拠とするときは、それを否定するか、全く無視する。こんなことをしては、普遍的なものの意義が損なわれてしまうであろう。

 あらかじめ抱く見解のためには、ある事物や人物が、A なる原理や理由により、何らかのあり方や行動をすることを是認して、しかし別の事物や人物が、同じ A なる原理や理由により、そうあることは決して認めない。あるいは同じ事物や人物について、ある時の自己の抱く主張のためには、それを a と性格づけて取り上げたのに、また別の時にする主張のためには、 a と反対の性格の b という性格でもって取り上げて、全く平気である。前者は対話するものの議論ではない。後者は欺瞞の言説であり、詐欺の弁舌である。